院長エッセイ集 気ままに、あるがままに 本文へジャンプ

 

靴下道、極めたり

 

私の朝は早い。6時頃には出勤する。いつものように朝風呂から上がり、身支度のためベッドルームへ戻る。引き出しから靴下を取り出し、右足から履き始める。ちなみに靴も右側から履く。利き足が右で、軸足が左なので、まずは左足で体を支えて右から履き始めるのだろうと考察するが、単なる習慣と言われれば、そんな気もする。靴下は当然左右ペアにして折りたたんで収納しているので、そのひと組を手にした瞬間に左右が分かる。つまり、つま先を下にして靴下を”く”の字に読めるように置いたときに、上に重なっているのが右で、下が左である。右を先に履く私には都合がいい。左右の分かりづらい踵のないツチノコのような靴下や、丈の短いスニーカーソックスは所有していないし、そもそも私はその類いのものは靴下とは認めていない。

右の靴下をリスフラン関節まで履いた時に、ベッドの足下に、昨晩脱ぎ捨てた靴下を発見。「洗濯物入れに持って行かなきゃ」と考えたときに、ある脳外科医が以前得意げに話していたことを思い出した。On callで呼ばれ、比較的短時間(せいぜい45時間程度)の外出で帰宅した場合、彼は靴下を脱いだ際、その靴下の汚れ具合を吟味し、さらに臭いまで嗅いで、明日もまだいけると判断した時は、そのひと組をベッドの足下に、翌日使用のため隠しておくのだという。「ワイフも、毎日の洗濯が大変だ。これはね、君、愛なのだよ。妻への愛」。その時は「へー」と感心したのであるが、彼のワイフが私の細君と友人でもあり、彼女からの情報によると、「その変な習慣やめてもらえないかしら」と脳外科医の妻には、はなはだ不評であることが判明した。背中を丸め靴下を嗅ぐ後ろ姿が脳裏をよぎる。いたわりという愛は理解されにくいものなのか? あるいは悋気を愛にすり替える小賢しさに、鋭く気づかれてしまったのか? 真相は謎である。

靴下はショパール関節を過ぎ、アンクルモーティスも通り越して踝(くるぶし)の上まで来た。その時、私は重大な過ちを犯していることに気づいた。左の靴下を右に履いているのだった。靴下につきもののロゴマークが、内側にきているのだ。本来ロゴマークは外側に来るべきもので、靴下道においては、外せない決まり事なのだ。「あー、あ」とい言いながら脱ごうとした手が止まった。「得体の知れない何者かに操られている」。ふとそんな気がしたからだった。冷静な自分を取り戻す。そもそもなぜ、靴下にロゴマークなどというものがついているのだろうか? 超高級ブランドで一枚ん千円というものならともかく、私の愛用する(愛用させられている)3枚で千円程度のものにも、ついているのだ。靴下の構造を詳しく分析すると、靴下そのものには左右差がないように思える。靴下の左右を決定づけているのは、ロゴマークなのである。たいしたブランドでもないロゴを、これ見よがしに外側に呈示して、果たして何の意味があるのか? 靴下はそのデザインも似たり寄ったりで、色も素材も似たようなものが多い。時々洗い立ての洗濯物から取り出して履いた靴下が、帰宅して脱ぐ時に左右別のものであったと気づき、「誰かに気づかれなかっただろうか?」と気をもむ経験をしたことが二度や三度ではない私であるが、なるほど、「これとこれがペアですよ」という印としてロゴが配置されているのか。いや待て、お人好しである私は、簡単に騙されてしまう。こういう一見親切そうにみえるものには裏があるのだ。底知れぬ暗い狡知が潜んでいたりするものだ。ハンバーグを注文する際、「ご一緒にポテトなどいかがですか?」と明るく勧められると、つい反射的に健康に悪そうなフライドポテトを注文してしまうではないか。ファミレスやファーストフードの座席の色や配置が、明るく開放的であるのも、落ち着きや安堵感を与えず、客の回転を速くする工夫であるという。そう考えると、靴下のロゴからは全く異なった発想の思惑が浮かび上がってくる。

靴下を履きつづけていると、立位時や歩行時の足底の圧分布の違いにより、前足部と踵が早くすり切れる。しかしそのすり切れあるいは摩耗パターンには個人差があり、それは足底部の形状や歩行パターン、運動や動作に影響される。右側の靴下を右足にだけはいていると、同一部位の摩耗が進み、早く穴が開くということになる。メーカーはロゴマークにより左右を決定し、商品の購入サイクルを早めようとする思惑があるのではないだろうか? 時々ロゴマークのない靴下があり、それは左右ランダムに履かれるので、より長持ちすると考えられる。その長持ち率が数%だとしても、すべての靴下が左右区別なく履かれてしまうと、靴下業界全体の売上高に換算すると、大幅な減収を招くだろう。そりゃあ考えすぎだろう。と一笑に付すなかれ。私は、そのような疑いのある事例にいくつも気づいている。そう、例えば、シャンプーとリンスだ。通常シャンプーとリンスは、同じメーカーの同じシリーズのものをペアで購入する。それぞれが、相補的に働くだろうと期待するからだ。するとどうだろう、その容器は非常によく類似しているのだ。色もほとんど一緒だったりする。当然、shampooとか conditionerと表示されてはいるのだが、腕をいっぱい伸ばさなければ読めない小さな文字だ。容器形状の些細な相違や部分的な色の違いはあるかも知れないが、いちいち覚えていられない。その度ごとに風呂場の薄暗い照明下で、小さな文字を読む苦行を繰り返すのもいやなので、適当にこれだろうとあたりをつけて使うのだが、やはり二分の一の確率で間違ってしまう。(私のセンシティブな頭皮は、使うとすぐにシャンプーとリンスを区別できる)そうやって容器を似せることによって、間違って使ってしまう確率を高め、消費量の増加と購入サイクルの短縮化を狙っているのではないか。ホームセンターで買うネジもそうだ。4個購入予定で物色すると、3個ひとパックだったりする。「3個? 中途半端やん〜」と毒づいても、2パック買うしかない。残りの2個が無駄になる。このようなケースは数え上げたらきりがない。

話を靴下に戻そう。左右間違って履いてしまった靴下を脱ぎながら、私はある重大なことに気づいた。メーカーが暗い魂胆でコントロールしようとしているのは、靴下そのものではなく、私の価値観、既成観念、見栄や外聞なのだと。そうだ、ロゴマークが外側だなんて誰が決めたのだ? 従うべき理由があるのか? さらなるエコを求めるなら、表裏逆に履くのも有効だろう。靴下は裏返しに履いても、すぐには違いを判別できないものが多い。先端部の両側に短い糸がピンと立ってしまうが、機能的には何ら問題がない。摩耗・色あせやくすみの均等化を図り、より長く使用するためには、左右表裏をランダムに履くのが一番だ。他人の目を気にせず、心をすべての呪縛から解き放ち、自由な気持ちで靴下を履く、なんとすがすがしいことだろう。「之、靴下道の極みなり」。私は開眼し、悟りを開いたのだ。脱ぎかけた靴下を右足に戻し、残りの靴下を手に取る。なんと、それは裏返しになっている。洗濯物の折りたたみ、タンスへの収納は細君の仕事だ。細君は、もうすでに、私の境地に達していたのだ。「夫の靴下なんて、どうでもいいから、適当に畳んじゃった〜。」というノリではない。決してそうではない。そうではないと思う。そうではないと言ってくれ〜。





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